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イスタンブール(3) チェルノブイリ原発事故ーその時私たちは

日本は平和ですねー。
自ら命を絶たなくとも餓えに振るえ、恐怖に脅え、人の命を動物か何かのように扱われ、生きたくとも生きる事のできない世界が、昔も今もこの地球上に実際にあるのですものね。
十年前でしたでしょうか?
私が日本語を教えていた人々の中に、どの国とはお話しませんが、道路に当たり前のように首のない死体の山が転がっている、自由などひとかけらもない国から来た人がいました。
実際にその写真を見せられた日、私はその光景の惨たらしさに食も喉に通らないほど衝撃を受けたことがあります。(政権が変り、今その国は随分良くはなりましたが、まだ内戦はあります)
平和な今の時代の日本に生まれてきたことに感謝して止みません。

1986年4月26日午前1時23分
旧ソ連、キエフ市北方約130キロにあるチェルノブイリ原発事故は起こった!
(随分昔の事と思われるかもしれませんが、現在、いえ未来に、この日本が、核の恐怖に襲われる危険性がないと断定できない不安が今あるのです。あの時のことを皆さんにお話しようと思います)

「おい、大変なことがソ連でおこったらしい」。主人が血相変えて会社から帰ってきた。
夫はその日、晴天だというのに急に物凄い雨にあって、不気味な気がしたと言った。
まさかその日からキエフから離れたイスタンブールにも平和な私達を脅かす、放射能汚染の恐怖が始まろうとは、その時の私達には想像もつかぬことだった。

街はいつもと変わりなく、店頭では新鮮で安い果物、魚、肉、ピスタチオが山積みして売られていた。
「マダム、えび、ひらめ、黒鯛、ターゼ(新鮮)のが入ったよ」。
魚好きな日本人に愛嬌をふりまく市場の人々。のどかな市民の表情からまったくお隣の国で大事故が起こった事など伺えられない。それが余計に私を不安にからせた。

広島の原爆の十倍、人間の記憶にある限り最大の惨事、スエーデン東岸で通常の百倍の放射能観測、ヨーロッパ全域斑点状に濃い死の灰、西独ではミルク飲用を制限、オーストリアでは幼児、妊婦の庭いじり自粛、イタリアうさぎ処分、,、等々。
私達は詳しい事件の情報を日本から送られる新聞から知った。
「牛乳どうしている?まだ子供に飲ませてるの?すぐやめた方が良いわ」。日本人主婦の間では不安、憶測、助言様々な意見が飛び交い、我が家の電話は鳴り止む事がなかった。
ミネラルウオーター一つとっても、ソ連から少しでも離れた地方の物が安全と、外国人居住区では飛ぶように売れた。買占めさえあった。
「マダム、どうしてイズミール産の水がよく売れるんだろうね?」。
何も知らないスーパーの店主は首をかしげながらも顔をほころばせていた。商売人の商魂たくましさか水の値段は目に見え高くなった。
友人の中にはソ連の雪解けの頃のボスポラス海峡の魚は危ないと、今の内と言って魚を買占めする者もいれば、健康には代えられないと、放射能を受けやすい葉物野菜をきっぱり食べないといった家庭もあった。
「私達大人はどうなっても良いのよ。でも未来を生きる子供達だけには、長生きしてほしい!」
あの頃主婦達が会えば、皆、真剣な顔で異口同音訴えたこの言葉が今でも脳裏に残る。
いざとなると、親とはかくも自分を犠牲にして愛するものを守ろうとするものなのだ!
育ち盛りの息子二人を抱える我が家でも、日本から粉ミルクを送ってもらい、サラダに葉物野菜を使うのをやめた。「チエリー、ピスタチオ、じゃがいも、みな黒海地方が産地じゃない。汚染されている。君子危きに近寄らず」。誰かが助言してくれた。
子供達の好物のポテトサラダを作るにも滑稽だと思われるかもしれないが、じゃがいもの一つや二つごときを、使うべきか使わざるべきか、真剣に悩んだ。
今でも思い出されるのは、果物屋の軒先に山となった大粒で甘くて安いさくらんぼを、まるでアダムとイブのように禁断の果物と、心を鬼にして通り過ぎることのなんと辛かったことか。
ところで当時ドイツ旅行に出かけた私達は、情報の多いヨーロッパの人々がどれほどショックを受けたかを知る事ができた。

ミュンヘンにて ミュンヘンにて

「あんた達どこからきたの?チェルノブイリ事故は大変だったね」と、ミュンヘンで乗ったタクシーの女運転手が話しかけてきた。事故当時街は騒然とし、彼女の一家は商売道具のタクシーで放射能の少ない南部へ避難しようとしたことを興奮気味に話してくれた。彼女の真剣な顔つきをみると、その話が疑う余地など微塵もないことを感じた。
「でもね、お客さん。所詮どこ逃げたってヨーロッパ中汚染されていちゃ同じよ。生まれて育った所で、今まで通り生活するっきゃしかたないじゃないの。一瞬皆パニックみたいになったけれど、今はみんな同じ場所で同じように生活している。ア、ハ、ハ、ハ」。彼女は豪快に笑った。

事故から三年経つ頃になって、トルコの新聞ではやっと、「奇形児が黒海近くで多く生まれるのは、チエルノブイリ事故に関係するようだ」と、書いた記事が記載された。
チエルノブイリ事故のあやふやな情報で動揺する私を見た、世界各地で暮したことのあるイギリス人の友人が実にあっけらかんと言った言葉を思い出す。
「この事件を環境汚染とか何とか騒ぎたてるけど、こうしている今でも、公にはしないけれど発展途上国
の多くは、先進国の垂れ流した有毒物質でどこも汚染され続けているわ。これが地球の実態よ。私は生きるために、何だって食べてやる。そうやって今までどこに行っても生きてきたわ」。
私は彼女の迫力、生命力の強さに言い返す言葉もなく、ただ感心するばかりだった。
環境汚染を人ごとと呑気にかまえていた主婦が、いやと言うほど知らされた事件だった。
地球の未来存続のため、純粋な気持ちで地球人の英知を結集し地球修復にあたれば、今からなら地球の未来も、そして人間の未来もそう悲観的でないかもしれない。

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