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イスタンブール 花と心の旅日記

2006年09月05日

イスタンブール 花と心の旅日記(1) 藍色の花瓶

「あの人は今頃お元気だろうか?」とふと思う人がいる。
その人とは、「せっかくイスタンブールに暮らすなら、ボスポラス海峡の見える家に住みたい」と、家族の希望に沿って引っ越した、アパートの階下に住む一人暮らしの女性のことだ。

イスタンブール


引っ越した翌日、可愛らしい包装紙に包まれた大きなチョコレートケーキが、その女性のメードにより我が家に届けられた。
「マダムは年老いて足が不自由なため、お目にかかることができませんが、よろしくと申してました」と、律儀そうな顔立ちのメードはそう言って帰って行った。ケーキの上には「ギュレギュレ、オトルヌス!(どうぞこのアパートで楽しくお暮らしになってください)」という飾り文字が描いてあった。
翌日私は日本から持参した小さな博多人形を持って、階下の女性を訪ねた。
11時ごろだったと思う。チャイムを鳴らすと、重厚な茶色の扉が開き、昨日のメイドが立っていた。
「マダムをお呼びしますのでどうぞ中に」。
メードに言われるまま私はその家の応接間に通された。部屋は薄暗くかすかに呼吸をしているようで、そよ風がやさしく窓辺の青色のレースのカーテンをなびかせていた。メイドに付き添われ白髪の女性が杖をつきながら現れた。小一時間は話しただろうか。亡き夫との調度品に囲まれ女性がひっそりと思い出の中に生きていることを感じた。

わたしたちのアパートの広さは、240平方メートルあった。リビングは70平方メートルあり念願の暖炉もあった。
ボスポラス海峡が眼下に広がり、アジア大陸とヨーロッパ大陸を結ぶ二つの橋も左右に見えるほど、絶景の眺望だった。とりわけ朝もやに霞む対岸の山の頂が、まるで墨絵に描いた雲海に浮かぶ浮島のように見え隠れし、次第に陽光と共に青々とした海峡が現れる自然の摂理のなすがままの情景は、すべてを忘れ陶酔するほど見事なものだった。
イスタンブールで日本政府後援の日本文化フェスティバルがあった際には、夫の会社の独身男性たちを我が家に招待し、ビール片手に「玉屋ー」と恥ずかしげもなく大声で叫んだものだ。「これがかの有名な日本の花火ですよ」と、バルコニーから叫びたいほど、夜空を埋め尽くす日本の花火は誇らしく美しく輝いていた。当然ながら翌日の新聞は日本の花火の話題でもちきりだった。

イスタンブール

初夏になると週末は、海峡を行き交う客船を眺めながら、バルコニーで朝食をとるのが我が家の習慣に
なった。見渡せば隣人達も同じように海を眺めながら食事をしている。しかし、そうやってのんびり過ごしていても、いつもどこかで誰か好奇な目が私たちを見ている、そんな気配を感じた。何処も隣人に対する好奇心はつよいということなのだろう。

昼間アパートはひっそりとし、時々階下の女性のメイドから「マダムからです」と、作りたてのトルコ料理が我が家に届けられた。息子の誕生日の朝のこと、「子供の誕生パーティーのため少々騒がしくなると思いますが・・」と告げに行くと、「子供は元気が何より、楽しいパーティーをしてあげてください」と、逆に温かい言葉が返ってきた。

日本に帰国する際、何やかやと忙しく挨拶を交わすことができなかった私は、階下の女性のことが気になって、私より一ヶ月遅れて帰国する夫に、女性への今までのお礼の手紙とプレゼントを託した。すると
帰国直前の夫の仮住まいのホテルにメイドがわざわざやってきて、「奥様に」とマダムから預かったという包みを手渡した。
一週間後、日本で私はその包みを受け取った。思いがけない包みの中には、藍色のクリスタルガラスの花瓶と手紙が入っていた。
「あなたが日本に帰られたのを聞いて驚き、寂しい気持ちで毎日を送っています。どうぞ皆様がお元気で、お幸せでありますようにお祈りしています」。

彼女からの藍色の花瓶に花を生けるたびに、花の微かな香りとともに、異国で出会った隣人の温かい気配りを思い出す。

2006年09月23日

イスタンブール花と心の旅日記(2) インシャーラの効用

女性たちは、いつの時代でもそれぞれの世代ごとに悩みは尽きないようだ。未婚の20代は結婚への不安、30、40代の子育て真っ最中の母親は、子供の教育問題や自分の時間が持てないことへの不満、50代の人は体の不調や嫁姑問題、60代の人は夫婦二人だけの過ごし方への懸念をよく耳にする。私を含めどんな人も、小さな不平不満や心配ごとを抱えながら、このストレスの多い現代社会をけなげに、明るく生きているということなのだろう。
このコラムをご覧になった人だけに、ストレス解消の取っておきのおまじないをこっそりお教えしよう。

皆さんは「インシャーラ」という言葉をどこかで聞いたことがあるだろうか。
直訳すると...「神のおぼし召しのままに」と言って、トルコ人が日常よく使う言葉だ。
昔ケ・セラ・セラ=なるようになるという、小気味の良い歌が流行ったことがあったが、そう言えばあのニュアンスにも若干似ているようにも思う。
日本に帰国してからの私は、この言葉の響き、相手への心遣いと無責任さが懐かしく、その上好ましくさえなるのだから不思議なものだ。

イスタンブール


イスタンブールに暮していた4年間、私たちはファトマというメイドを雇っていた。
眼鏡をかけ、鼻筋の通ったファトマの顔立ちは、どちらかというと白系ロシア人に近く、識字率がそのころ50パーセントという低い中で、ファトマは本が読め、字も書けた。
しかしそんないかにも真面目で賢そうな彼女だったが、彼女は時々無断欠勤した。

「来ない時は必ず連絡してね」。と注意すれば、「インシャーラ!」と、クールな顔をして軽く返事をする。それでは来るのかと期待すれば、みごとにすっぽかされた。

その頃の私は「インシャーラ」の言葉を聞いただけで虫ずが走ったものだ。悩んだ末、イスラム独特のこの言葉に手立てを考えることにした。
「インシャーラ」と言われたら、本心は期待したいのだが、努めて、期待しないようにした。それでも堪忍袋の緒が切れて、「インシャーラ」のルーズさに腹が立ちそうになった時は、こちらから何度でも、納得できる回答が来るまで、アプローチを試みた。日本人の律儀さとトルコ人のいいかげんさの戦いとでもいうのだろうか。

例えば、「明日は晴れるかしら」と尋ねたにしよう。
あちらから、「インシャーラ」と返事が返ってきたら、神のおぼし召しのままに晴れれば良しとし、雨ならば残念、はずれでしたと気楽に宿命的に構えたらと理解すれば良いことになる。
「テレビの調子が悪いのだけれど、火曜日までには直しに来てくれるかしら?」
「インシャーラ」
無理なのだろうと期待しない。万が一、「インシャーラ」が旨くいって来てくれたならばしめたもの。しかし約束の日を過ぎて、3,4日経っても来ない場合は、もう一度しつこくこちらからアプローチした。常にこの位の余裕と寛容さで接すると、トルコ人の中で暮らすのも思っていたより楽になり腹が立たなくなった。

思えばインシャーラとは、傲慢で自分の優柔不断な態度を見せず人に、頭を下げるのが嫌いなトルコ人の国民性と、「アラーの神の思し召しのままに」というイスラムの宗教的観念が合わさった、トルコ人にしてみれば好都合な言葉なのかも知れない。

気付いた時にはお恥ずかしいことに、あれほどインシャーラを毛嫌いしていた日本人である私が、トルコ人に対し、見事に「インシャーラ」を連発していたのだから、おかしくなる。

流れる運命には逆らわず=インシャーラのイスラムの教えは、適当に見える反面、良く言えば適当さの自由、運命に逆らわないところの喜びを素直に感じる。
秩序だった規則にがんじがらめに生きている日本から来た私には、本音をいうと、ほっと息がつける響きの良い言葉になっていた。

「神の思し召しのままに!」=イン、シャーラ
運命は神のみぞ知る。ベストを尽くしたならば、それでいいじゃないの。楽に生きられたら。いつもどこかにこんな気持ちを持っていれば、人生なんと肩肘張らず、楽に生きて行けることだろう。


ある時ファトマが私に尋ねた。
「日本は中流階級のいっぱいいる国と聞くけれど、本当ですか?ほとんどの人がテレビ、冷蔵庫、自動車持っているんですか?」
「ほとんどの人が持っているわ」
「へー、私も中流階級の多い国に住んでみたい。トルコが日本のようになるには、あとどの位かかるのでしょうね。10年、それとも20年?早くそんな日にならないかしら」
遠い日を見つめながら、ファトマの瞳が希望に輝いていたのを私は今でも忘れられない。

今頃ファトマや、人の良いご主人のイスマイルはどうしているのだろう。
彼らの生活や幸せは、私たちの日本の生活に比べると、もろいようにも思えた。
しかし「インシャーラ」という楽天的な考えと、生きる事へのたくましさ、神から授かった豊かなトルコの自然、素朴な人の心。きっと彼らは力強く生きているだろう。そして夫婦の夢である生まれ故郷のアンタリアの町に、小さくとも温かい家庭料理のロカンタができていることを心から願っている。

2006年11月18日

イスタンブール(3) チェルノブイリ原発事故ーその時私たちは

日本は平和ですねー。
自ら命を絶たなくとも餓えに振るえ、恐怖に脅え、人の命を動物か何かのように扱われ、生きたくとも生きる事のできない世界が、昔も今もこの地球上に実際にあるのですものね。
十年前でしたでしょうか?
私が日本語を教えていた人々の中に、どの国とはお話しませんが、道路に当たり前のように首のない死体の山が転がっている、自由などひとかけらもない国から来た人がいました。
実際にその写真を見せられた日、私はその光景の惨たらしさに食も喉に通らないほど衝撃を受けたことがあります。(政権が変り、今その国は随分良くはなりましたが、まだ内戦はあります)
平和な今の時代の日本に生まれてきたことに感謝して止みません。

1986年4月26日午前1時23分
旧ソ連、キエフ市北方約130キロにあるチェルノブイリ原発事故は起こった!
(随分昔の事と思われるかもしれませんが、現在、いえ未来に、この日本が、核の恐怖に襲われる危険性がないと断定できない不安が今あるのです。あの時のことを皆さんにお話しようと思います)

「おい、大変なことがソ連でおこったらしい」。主人が血相変えて会社から帰ってきた。
夫はその日、晴天だというのに急に物凄い雨にあって、不気味な気がしたと言った。
まさかその日からキエフから離れたイスタンブールにも平和な私達を脅かす、放射能汚染の恐怖が始まろうとは、その時の私達には想像もつかぬことだった。

街はいつもと変わりなく、店頭では新鮮で安い果物、魚、肉、ピスタチオが山積みして売られていた。
「マダム、えび、ひらめ、黒鯛、ターゼ(新鮮)のが入ったよ」。
魚好きな日本人に愛嬌をふりまく市場の人々。のどかな市民の表情からまったくお隣の国で大事故が起こった事など伺えられない。それが余計に私を不安にからせた。

広島の原爆の十倍、人間の記憶にある限り最大の惨事、スエーデン東岸で通常の百倍の放射能観測、ヨーロッパ全域斑点状に濃い死の灰、西独ではミルク飲用を制限、オーストリアでは幼児、妊婦の庭いじり自粛、イタリアうさぎ処分、,、等々。
私達は詳しい事件の情報を日本から送られる新聞から知った。
「牛乳どうしている?まだ子供に飲ませてるの?すぐやめた方が良いわ」。日本人主婦の間では不安、憶測、助言様々な意見が飛び交い、我が家の電話は鳴り止む事がなかった。
ミネラルウオーター一つとっても、ソ連から少しでも離れた地方の物が安全と、外国人居住区では飛ぶように売れた。買占めさえあった。
「マダム、どうしてイズミール産の水がよく売れるんだろうね?」。
何も知らないスーパーの店主は首をかしげながらも顔をほころばせていた。商売人の商魂たくましさか水の値段は目に見え高くなった。
友人の中にはソ連の雪解けの頃のボスポラス海峡の魚は危ないと、今の内と言って魚を買占めする者もいれば、健康には代えられないと、放射能を受けやすい葉物野菜をきっぱり食べないといった家庭もあった。
「私達大人はどうなっても良いのよ。でも未来を生きる子供達だけには、長生きしてほしい!」
あの頃主婦達が会えば、皆、真剣な顔で異口同音訴えたこの言葉が今でも脳裏に残る。
いざとなると、親とはかくも自分を犠牲にして愛するものを守ろうとするものなのだ!
育ち盛りの息子二人を抱える我が家でも、日本から粉ミルクを送ってもらい、サラダに葉物野菜を使うのをやめた。「チエリー、ピスタチオ、じゃがいも、みな黒海地方が産地じゃない。汚染されている。君子危きに近寄らず」。誰かが助言してくれた。
子供達の好物のポテトサラダを作るにも滑稽だと思われるかもしれないが、じゃがいもの一つや二つごときを、使うべきか使わざるべきか、真剣に悩んだ。
今でも思い出されるのは、果物屋の軒先に山となった大粒で甘くて安いさくらんぼを、まるでアダムとイブのように禁断の果物と、心を鬼にして通り過ぎることのなんと辛かったことか。
ところで当時ドイツ旅行に出かけた私達は、情報の多いヨーロッパの人々がどれほどショックを受けたかを知る事ができた。


ミュンヘンにて ミュンヘンにて


「あんた達どこからきたの?チェルノブイリ事故は大変だったね」と、ミュンヘンで乗ったタクシーの女運転手が話しかけてきた。事故当時街は騒然とし、彼女の一家は商売道具のタクシーで放射能の少ない南部へ避難しようとしたことを興奮気味に話してくれた。彼女の真剣な顔つきをみると、その話が疑う余地など微塵もないことを感じた。
「でもね、お客さん。所詮どこ逃げたってヨーロッパ中汚染されていちゃ同じよ。生まれて育った所で、今まで通り生活するっきゃしかたないじゃないの。一瞬皆パニックみたいになったけれど、今はみんな同じ場所で同じように生活している。ア、ハ、ハ、ハ」。彼女は豪快に笑った。

事故から三年経つ頃になって、トルコの新聞ではやっと、「奇形児が黒海近くで多く生まれるのは、チエルノブイリ事故に関係するようだ」と、書いた記事が記載された。
チエルノブイリ事故のあやふやな情報で動揺する私を見た、世界各地で暮したことのあるイギリス人の友人が実にあっけらかんと言った言葉を思い出す。
「この事件を環境汚染とか何とか騒ぎたてるけど、こうしている今でも、公にはしないけれど発展途上国
の多くは、先進国の垂れ流した有毒物質でどこも汚染され続けているわ。これが地球の実態よ。私は生きるために、何だって食べてやる。そうやって今までどこに行っても生きてきたわ」。
私は彼女の迫力、生命力の強さに言い返す言葉もなく、ただ感心するばかりだった。
環境汚染を人ごとと呑気にかまえていた主婦が、いやと言うほど知らされた事件だった。
地球の未来存続のため、純粋な気持ちで地球人の英知を結集し地球修復にあたれば、今からなら地球の未来も、そして人間の未来もそう悲観的でないかもしれない。

2007年08月28日

イスタンブールー(4)リビー先生と子供の瞳に見えたもの

小さな肩に重そうな靴磨きの道具を担ぎ、「磨いてほしい靴はないですか?」と、たたずむ少年のひたむきな顔。
「チューリップはいかがですか?」、「窓ガラスを拭きますよ」と信号待ちの車に寄ってくる子供たちの愛らしい顔。
ホメイニ体制になったため、先祖代々の広大な農地を没収され、イランから逃げて来た家族の事情をあどけない顔をして、切々と訴える息子のクラスメートの真剣な顔。内戦がひどいユーゴからイスタンブールに父親の転勤で来た少女の、内戦前の美しい裏山の景色を、懐かしそうに語ってくれたつぶらな瞳。
帰国後、無駄遣いしたり、怠惰な生活をしている小学生の息子達を見かねた夫が、「トルコに行って君たちも靴磨きをしてみたら?、きっとお金のありがたさや生きる事の大変さがわかるから」と言うと、急に神妙な顔をした息子達の顔を思い出します。

ハロウィンの仮装  ハロウィンの仮装


大学生になった息子達は、二人とも休みになるとそれぞれ大きなバックパック一つ担いで、まだ彼らの見ぬ国々や特にアジアの国々を一ヶ月ぐらいかけてじっくり回っていました。
「お、か、え、り」。心配と安堵の入り混じった気持ちで、旅から帰った息子を迎える私に、
「いいな~その言葉!その言葉があるから、僕はここに帰ってこれるんだな~」と、一段と頼もしくなった顔から、いつもの見慣れた笑顔がこぼれていました。 
「世界中回って、色々な子供に会ったけど、巧妙な嘘をつく大人と違って、子供達が観光客につく嘘はみんな可愛くて憎めないんだよな」 と、息子の真っ黒に日に焼けた顔から白い歯が光っていました。
子供の純粋なつぶらな瞳に、未来を感じます。
その希望の瞳をつぶさず育てるのが大人の使命だと思います。トルコ、イスタンブールでの生活は、広い地球上には自分達と同じ境遇の子供達ばかりでないことを、幼かった息子達に気付かせてくれました。


子供とのかかわりの中で様々な人と出会いましたが、その中で特に忘れられない人がいます。
その人は今頃、祖国であるアメリカに帰って、教師という仕事を続けているのでしょうか。
または未開の地で、読み書きできない子供達のために惜しみなく、尽くしているのでしょうか。

リビー先生と子供達  リビー先生と子供達


「みんな、15分あげるから好きなものを買ってきていいぞ!」。
リビー先生の大きな声が辺りに響きわたりました。
その人(息子のクラス担任リビー先生)は、校長に特別に許可をもらい社会見学と称して、息子含め17名いるインターナショナルスクールの生徒達を引きつれ、エジプシャンバザールというイスタンブールで有名な香辛料や日用雑貨を売るアーケードの入り口に立っていました。
私はクラスマザーとして、二人のアメリカ人、イギリス人の母親仲間と同行しました。

エジプシャンバザールは大人の腰くらいあろうかと思われる茶色の大きなカメに、何百種類の香辛料が山のように積まれ、軒には海綿が所狭しと天井からぶる下がり、まるで「アラジンと魔法のランプ」の世界に入り込んだような、いかにも中東という香りのする場所でした。

ブルーモスク 旧市街地にあるブルーモスク

何分ぐらい経ったでしょうか。
イミテーションのネックレスを、習いたてのトルコ語を使い、「安くかった」と自慢している生徒や、妹のためと言いながら思案の末、千円くらいで買った時計を大事そうにかかえた生徒。皆、手に手に土産を持って楽しげに戻ってきました。
生徒達はイラン、ユーゴ、イスラエル、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、スイス、韓国と様々な国から集まった国際色豊かな子供達です。
気が付けば、旧市街地の中心広場をぬけ、ブルーモスク、アヤソフィアの広場に続く長い石畳の道を行く私達の近くを、トルコの少年三人が、親しげな顔で着いてくるではありませんか。その三人は、リビー先生から旧市街地の一日観光案内をしてくれるように頼まれいたのです。
先生はイスタンブール旅行中、三人と知り合いになり、読み書きを教えたり、自分のいらなくなった服をあげ、面倒を見ていたのです。
そういえば三人の中でちょっぴり背の高いムスタハは、リビー先生のプレゼントらしい、ちょっと大きなジャケットを着ていました。

                   

息子達と同じ年頃で経済的な理由で働かざるを得なくなった三人と、何不自由なく育っているインターナショナルスクールの子供たちがどう仲良くなって行くのか、いけるのか、私は遠くから見守ることにしました。子供達の仲良くなることの早かったこと!
初めはもじもじと、時には冷たい目つきで相手を観察していたインターナショナルスクールの子供達も、リビー先生の三人に対する接し方、三人の明るく誠実な態度に、いつの間にか自然と打ち解けあっていたのです。

観光のあと、彼らの案内してくれたトルコ家庭料理のレストランの味が、どのりっぱなホテルで食べたものより、妙に温かく、おいしく感じたのを今でもよく覚えています。

各種ドルマ       イチ・ピラフ 

各種ドルマ(トマトなどの中に味付けご飯を詰めたもの)    ローストチキンとイチ・ピラフ(飾りピラフ)


外に出ると雨が降っていました。
三人は「もうここでいいから」と、私達が言うのも聞かず、傘もささずにバス停まで送ってくれました。
インターナショナルの生徒とトルコの境遇の違う三人。
子供達は子供達なりに曇りのない眼で、お互いを理解しようとしてました。
さ、よ、う、な、ら!
三人は降りしきる雨の中、バスに乗った私達を追いかけ、いつまでもいつまでも手を振ってくれました。
映画のワンシーンを見ているような瞬間に、私もそしてインターナショナルスクールの子供達も、いつまでも遠く消え行く三人に、手を振っていました。

翌日息子は学校から帰るなり、「世界中を回りながら、困っている子供のために何かしてあげたい。そう思ってインターナショナルスクールの教師の道を選んだだってさ」と、リビー先生から聞いたと言う話を私に誇らしげに話してくれました。
「机に向かう勉強だけが勉強でなく、世界中の様々な人々を見てみろよ。きっと君達の未来は自分の手で開けるよ。」リビー先生は、そう子供達に教えてくれたのだと私は思っています。

きのこ狩り きのこ狩り


二人の息子は、一人は日本の画一的教育に不満を持ち、不登校になった時もありました。
しかしアメリカ留学中に、「宇宙のあまたある星の中の、地球という星に生まれ、地球のあまたある国々の中の、日本という国に生まれ、あまたある県の中の千葉県に生まれ、その中の松戸の今村家の一人と生まれた事に感謝しています。生んでくれてありがとう」。と、長い手紙を私達夫婦に送ってくれました。
又一人は、世界中観光して世界の人々が気軽に日本に来れるようになったらどんなに良いだろうと夢を語っています。そうそう、この度、現役サラリーマンバンドである「ルート8」のボーカルとして、サラリーマン応援ソングで、何とCDデビューしました!
どんなことでも楽しさに変え、チャレンジするのが、そしてそれを家族で応援するのが我が家らしさということでしょうか。

2008年08月15日

最終章 イスタンブール旅情

先日83歳で亡くなった叔父は、生前、私のつたない文章を読んで、「人生は旅、紀行であり、生活事情、異文化への接触」だな、だからこの文を『イスタンブール旅情』という題にしたらどうだろう」と書き込んでくれました。
最終章 私達がトルコで得たもの、この文を叔父に捧げます。

(文章に書いたVan県は、最近の外務省の渡航危険情報では、「十分注意」になっており、残念ながら、観光には適していない状況になっています。)
<私達がトルコで得たもの>
 (1)幻の古城
 皆さんはトルコが遺跡の多い国ということを御存知でしょうか?                         トルコ
紀元前のものから始まり、特にペルシャ、ローマ時代のものが至る所たくさん残っています。
鉄器を実用にしたヒッタイト帝国の都の跡、飄々とした平原に突如として現れるヘレニズムからローマ時代にかけて栄えたエフィソスの広大な都跡。屋外のホテルのプールの中に忽然とある古代遺跡等々。
書き尽くせぬほど至る所に、予期せぬ古代の遺物が自然と調和し、何の変哲も無く現代の旅人の前に現れます。

トルコ

私がまだトルコを今のように知らない頃、たまたま街で見かけた一枚の古城の写真がありました。
まるで神がかりのようにその写真に引き付けられ、えも言われぬ感動を覚えました。
もしトルコを旅することがあるなら、是非写真の場所に行ってみたい、自分のこの目で確かめたいと思い、それが実現したのは何とトルコ四年間の滞在の内の最後の年の4月のことでした。
その写真の古城のある街ドウベヤズットはその頃、公の交通手段もなく、治安も悪いところで、日本人の訪問者は皆無という場所でした。


イスタンブール~アンカラ間一時間飛行機。アンカラ~バン間一時間半の飛行機。バスで30~40分間揺られると最初の目的地バン湖(琵琶湖の6倍)があります。そのバンの町から東方約5キロの所にも紀元前825年にウラトウル一世によって造られたという風化寸前の城跡バン城がありました。

トルコバン湖からの眺め

まず私たちはバンの町で、交通手段のないドウベヤズットの町まで行ってくれる運転手を探すことにしました。知人から紹介された絨毯屋を探し、その人から運転手を紹介してもらうことを考えました。

「何探しているの?」「その絨毯やなら僕知っている。着いてきて!」
イスタンブールで暮らすいつものように、初めて出会った親切な少年のあとをなんの抵抗もなく追い、絨毯屋に無事着くことができました。
その頃は日本人であっても、どこか半分トルコ人でもあるような錯覚、そんなにまで私達はトルコという国になじんでいたのです。。
翌朝、バイラム中ということでしたが休みを返上して、物静かで、実直そうなヌルイという運転手が快く車をだしてくれました。

さ~写真の古城のある町、ドウベヤズットに出発です!

トルコ


何時間くらい車に揺られたでしょうか?
気付くと山肌にトルコの三日月の国旗のマークが見えてきて、その向こう側はイランという所まできてました。
辺りは荒涼たる平原で、微かにまるで点のように牛飼いがたくさんの羊を追いかけているのが見えました。
すれちがう車はまるでなく、ヌルイからここら辺はひょっこりイラン兵や山賊が出てくるなどと脅かされると、なんとなく身構えたものです。
しかしヌルイはというと一つも表情を変えず、昨日知り合ったトルコ人のヌルイがやけに強い見方のように感じたものです。

トルコ

「ここから、山越えをします。ガタガタ揺れますから気をつけて!」
車は道なき道を走りぬけ、冬の雨期になると川底になるという赤土の大きな岩がゴロゴロある道の真ん中を、まるで青虫にでもなったように器用に右に左に縫いながら前進するのです。
目の前に川が見えてきてもおんぼろ車はもろともせず、泥しぶきをバッサバッサかけながら走り続けました。
と、緑のない土色の景色の中に土で固めた家々の集落がうっすらと見えてきました。

雪!暖かな日でしたが急に雪が舞いだし、雪の舞う中を白いロバを引きこちらに向かう民族衣装に着飾った彫りの深い美しい少女が見えました。
まるで一瞬の夢の世界をさ迷っているような瞬間でした。

トルコ

いつの間にか雪はやみ、突然視界は開け、風になびく草の束、刺すほどの眩しい太陽、雄大な大地の彼方に目指すドウベヤズイットの町が、蜃気楼のように土埃に霞んで見えました。

(2)平和を語る
ドウベヤズットの町は交通が不便なわりには思ったより活気のある町でした。

一つの理由はノアの箱舟が山頂に漂流したという標高5,165メートルの聖山と崇められるアララット山があること、もう一つの理由はイラン国境から35キロ、昔から交易都市として栄えた町でした。

トルコ
  

イラン国境の幅6,7メートルの道路の両端には絨毯や衣類を売る店、食料品店が軒を連ねていました。一台の大型バスが横付けになると、イスラム独特の黒ずくめの服を着た女達や険しい顔付きの男達が、周囲を気にしながら降りてきました。
実はその人達はイランからトルコに買い物にきた人々で、その中には国境を越え持ち出し禁止のペルシャ絨毯を売りにくる密売人もいるようでした。

夕食後私は夕涼みかたがた、近くの絨毯屋を覗くことにしました。
背広姿の色白の感じの良い店主から絨毯の説明を受けていると、猛々しい騎馬遊牧民であったトルコ民族の祖先を彷彿させるような店主の友人という男が入ってきました。

トルコ

チャイを飲みながら四方山話をしていると、店主はクルド人(パレスチナ同様、国境を持たない遊牧民)であり、目付きの鋭い男はイラン人の密売人であることがわかってきました。
自国を持たない少数民族の国境の遊牧民であるが故の異文化強制、偏見、差別。
店主が語る純粋で一途な瞳の奥に、、自分の生まれた民族を尊び大切にしたいと願う熱意、民族に対する誇りをひしひしと感じずにはいられませんでした。
「君には故郷日本と言う地があっていいね」彼の言葉が忘れられません。

トルコ

日本から遠く離れた地で、イラン人、クルド人、日本人の三人が、語り合える共通言語のトルコ語で、互いの国の事情、平和のあり方を語り、互いに理解し合おう、してもらおうと努めていることに興奮し、感動している私がいました。

どの時代に生まれたか、どの民族に生まれたか、どうして人間は平和を願うのに欲を捨てられないのか、対立するのか、皆必死に生きている。
二度と訪れる事もないだろうトルコ最東端の町ドウベアジットで経験した不思議な夜でした。


(3)自然が教えてくれたもの
翌朝、私達は荒野の中を走りぬけ、夢にまで見た写真の古城イスハクパシャに向かいました。
紀元前千年前のアルメニアのウラルトウ王国の跡と言われる古城は、ドウベヤズイットの町から車で20分程の赤茶けた山稜にありました。

古城に近づくにつれ、なぜか私は(それは、ヨーロッパの古城を訪れた際にも感じたことです)君主達は、いいえ、人間は、「われがこの世の帝王、征服者」と言いたげに、地の果てが見渡せる、天に一番近い所に城を築き、下界に住む晩人を見下そうとするのか。
そんな想いと、日本から想いを馳せた写真の古城に対面できる、その喜びで浮き立ってもいました。

トルコ


イスハクパシャの古城の朽ち果てた門に立った瞬間・・・・。
長い間の憧れは思いもしないほど無惨に崩れ、
城とは・・・?、数多くの遺跡とは・・・?
結局、人間の栄枯盛衰の夢の残り火。大自然に空しく無意味な抵抗をしているように思え哀れにさえなりました。

「風の音が聞こえる!」。
廃墟の窓から外界を眺めたその時でした。

ノアの箱舟が漂着したというアララット山、遠くパノラマの如く広がる山々に囲まれたすり鉢上の大地、雲海の如く漂う土埃。
それらの自然は、古城より強烈に心を捕らえました。

自然は時を越え、人間を嘲笑するかのごとく超然と立ちはだかっていました。

トルコ


空と大地の空間を、大きな鳥が2羽、悠然と飛び交うのが見えました。
地の奥底から「ゴー」という風の音が地響きのように大地を揺るがせ、沸きあがってくるのを感じました。
その例えようもない音は、何千年もの昔から繰り返されたであろう人間の醜い争い、うごめきあう声?それとも箱舟がまさしくこのすり鉢上の大地を漂流した波の音?それらは私の空耳だったのでしょうか?

広大ななすがままの大地に立てば、私も、昔、栄華を極めたオスマントルコの人々さえ、不思議と素直な気持ちになって「森羅万象、生かされている」、ただそれのみ思うことでしょう。
人間とは、歴史とは、時とは、人間社会では簡単に言い尽くせぬ答えが、広大な自然に隠されていると感じた瞬間です。

今でもあの古城に立った時のえもいわれぬ感動を忘れません。
それを教えてくれたのは人々の素朴な心であり、雄大な自然でした。

私より未来を行く若者たちへ。
もし現代社会に心も体も押しつぶされそうになったら、自然に戻れば良い。
そこから出発すれば、新たなものがきっと見えてくるはずだから。

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