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最終章 イスタンブール旅情

先日83歳で亡くなった叔父は、生前、私のつたない文章を読んで、「人生は旅、紀行であり、生活事情、異文化への接触」だな、だからこの文を『イスタンブール旅情』という題にしたらどうだろう」と書き込んでくれました。
最終章 私達がトルコで得たもの、この文を叔父に捧げます。

(文章に書いたVan県は、最近の外務省の渡航危険情報では、「十分注意」になっており、残念ながら、観光には適していない状況になっています。)
<私達がトルコで得たもの>
(1)幻の古城

トルコ
皆さんはトルコが遺跡の多い国ということを御存知でしょうか?
紀元前のものから始まり、特にペルシャ、ローマ時代のものが至る所たくさん残っています。
鉄器を実用にしたヒッタイト帝国の都の跡、飄々とした平原に突如として現れるヘレニズムからローマ時代にかけて栄えたエフィソスの広大な都跡。屋外のホテルのプールの中に忽然とある古代遺跡等々。
書き尽くせぬほど至る所に、予期せぬ古代の遺物が自然と調和し、何の変哲も無く現代の旅人の前に現れます。

トルコ

私がまだトルコを今のように知らない頃、たまたま街で見かけた一枚の古城の写真がありました。
まるで神がかりのようにその写真に引き付けられ、えも言われぬ感動を覚えました。
もしトルコを旅することがあるなら、是非写真の場所に行ってみたい、自分のこの目で確かめたいと思い、それが実現したのは何とトルコ四年間の滞在の内の最後の年の4月のことでした。
その写真の古城のある街ドウベヤズットはその頃、公の交通手段もなく、治安も悪いところで、日本人の訪問者は皆無という場所でした。

イスタンブール~アンカラ間一時間飛行機。アンカラ~バン間一時間半の飛行機。バスで30~40分間揺られると最初の目的地バン湖(琵琶湖の6倍)があります。そのバンの町から東方約5キロの所にも紀元前825年にウラトウル一世によって造られたという風化寸前の城跡バン城がありました。

トルコバン湖からの眺め

まず私たちはバンの町で、交通手段のないドウベヤズットの町まで行ってくれる運転手を探すことにしました。知人から紹介された絨毯屋を探し、その人から運転手を紹介してもらうことを考えました。

「何探しているの?」「その絨毯やなら僕知っている。着いてきて!」
イスタンブールで暮らすいつものように、初めて出会った親切な少年のあとをなんの抵抗もなく追い、絨毯屋に無事着くことができました。
その頃は日本人であっても、どこか半分トルコ人でもあるような錯覚、そんなにまで私達はトルコという国になじんでいたのです。。
翌朝、バイラム中ということでしたが休みを返上して、物静かで、実直そうなヌルイという運転手が快く車をだしてくれました。

さ~写真の古城のある町、ドウベヤズットに出発です!

トルコ

何時間くらい車に揺られたでしょうか?
気付くと山肌にトルコの三日月の国旗のマークが見えてきて、その向こう側はイランという所まできてました。
辺りは荒涼たる平原で、微かにまるで点のように牛飼いがたくさんの羊を追いかけているのが見えました。
すれちがう車はまるでなく、ヌルイからここら辺はひょっこりイラン兵や山賊が出てくるなどと脅かされると、なんとなく身構えたものです。
しかしヌルイはというと一つも表情を変えず、昨日知り合ったトルコ人のヌルイがやけに強い見方のように感じたものです。

トルコ

「ここから、山越えをします。ガタガタ揺れますから気をつけて!」
車は道なき道を走りぬけ、冬の雨期になると川底になるという赤土の大きな岩がゴロゴロある道の真ん中を、まるで青虫にでもなったように器用に右に左に縫いながら前進するのです。
目の前に川が見えてきてもおんぼろ車はもろともせず、泥しぶきをバッサバッサかけながら走り続けました。
と、緑のない土色の景色の中に土で固めた家々の集落がうっすらと見えてきました。

雪!暖かな日でしたが急に雪が舞いだし、雪の舞う中を白いロバを引きこちらに向かう民族衣装に着飾った彫りの深い美しい少女が見えました。
まるで一瞬の夢の世界をさ迷っているような瞬間でした。

トルコ

いつの間にか雪はやみ、突然視界は開け、風になびく草の束、刺すほどの眩しい太陽、雄大な大地の彼方に目指すドウベヤズイットの町が、蜃気楼のように土埃に霞んで見えました。

(2)平和を語る
ドウベヤズットの町は交通が不便なわりには思ったより活気のある町でした。

一つの理由はノアの箱舟が山頂に漂流したという標高5,165メートルの聖山と崇められるアララット山があること、もう一つの理由はイラン国境から35キロ、昔から交易都市として栄えた町でした。

トルコ

イラン国境の幅6,7メートルの道路の両端には絨毯や衣類を売る店、食料品店が軒を連ねていました。一台の大型バスが横付けになると、イスラム独特の黒ずくめの服を着た女達や険しい顔付きの男達が、周囲を気にしながら降りてきました。
実はその人達はイランからトルコに買い物にきた人々で、その中には国境を越え持ち出し禁止のペルシャ絨毯を売りにくる密売人もいるようでした。

夕食後私は夕涼みかたがた、近くの絨毯屋を覗くことにしました。
背広姿の色白の感じの良い店主から絨毯の説明を受けていると、猛々しい騎馬遊牧民であったトルコ民族の祖先を彷彿させるような店主の友人という男が入ってきました。

トルコ

チャイを飲みながら四方山話をしていると、店主はクルド人(パレスチナ同様、国境を持たない遊牧民)であり、目付きの鋭い男はイラン人の密売人であることがわかってきました。
自国を持たない少数民族の国境の遊牧民であるが故の異文化強制、偏見、差別。
店主が語る純粋で一途な瞳の奥に、、自分の生まれた民族を尊び大切にしたいと願う熱意、民族に対する誇りをひしひしと感じずにはいられませんでした。
「君には故郷日本と言う地があっていいね」彼の言葉が忘れられません。

トルコ

日本から遠く離れた地で、イラン人、クルド人、日本人の三人が、語り合える共通言語のトルコ語で、互いの国の事情、平和のあり方を語り、互いに理解し合おう、してもらおうと努めていることに興奮し、感動している私がいました。

どの時代に生まれたか、どの民族に生まれたか、どうして人間は平和を願うのに欲を捨てられないのか、対立するのか、皆必死に生きている。
二度と訪れる事もないだろうトルコ最東端の町ドウベアジットで経験した不思議な夜でした。

(3)自然が教えてくれたもの
翌朝、私達は荒野の中を走りぬけ、夢にまで見た写真の古城イスハクパシャに向かいました。
紀元前千年前のアルメニアのウラルトウ王国の跡と言われる古城は、ドウベヤズイットの町から車で20分程の赤茶けた山稜にありました。

古城に近づくにつれ、なぜか私は(それは、ヨーロッパの古城を訪れた際にも感じたことです)君主達は、いいえ、人間は、「われがこの世の帝王、征服者」と言いたげに、地の果てが見渡せる、天に一番近い所に城を築き、下界に住む晩人を見下そうとするのか。
そんな想いと、日本から想いを馳せた写真の古城に対面できる、その喜びで浮き立ってもいました。

トルコ

イスハクパシャの古城の朽ち果てた門に立った瞬間・・・・。
長い間の憧れは思いもしないほど無惨に崩れ、
城とは・・・?、数多くの遺跡とは・・・?
結局、人間の栄枯盛衰の夢の残り火。大自然に空しく無意味な抵抗をしているように思え哀れにさえなりました。

「風の音が聞こえる!」。
廃墟の窓から外界を眺めたその時でした。

ノアの箱舟が漂着したというアララット山、遠くパノラマの如く広がる山々に囲まれたすり鉢上の大地、雲海の如く漂う土埃。
それらの自然は、古城より強烈に心を捕らえました。

自然は時を越え、人間を嘲笑するかのごとく超然と立ちはだかっていました。

トルコ

空と大地の空間を、大きな鳥が2羽、悠然と飛び交うのが見えました。
地の奥底から「ゴー」という風の音が地響きのように大地を揺るがせ、沸きあがってくるのを感じました。
その例えようもない音は、何千年もの昔から繰り返されたであろう人間の醜い争い、うごめきあう声?それとも箱舟がまさしくこのすり鉢上の大地を漂流した波の音?それらは私の空耳だったのでしょうか?

広大ななすがままの大地に立てば、私も、昔、栄華を極めたオスマントルコの人々さえ、不思議と素直な気持ちになって「森羅万象、生かされている」、ただそれのみ思うことでしょう。
人間とは、歴史とは、時とは、人間社会では簡単に言い尽くせぬ答えが、広大な自然に隠されていると感じた瞬間です。

今でもあの古城に立った時のえもいわれぬ感動を忘れません。
それを教えてくれたのは人々の素朴な心であり、雄大な自然でした。

私より未来を行く若者たちへ。
もし現代社会に心も体も押しつぶされそうになったら、自然に戻れば良い。
そこから出発すれば、新たなものがきっと見えてくるはずだから。

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