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イスタンブール 花と心の旅日記(1) 藍色の花瓶

「あの人は今頃お元気だろうか?」とふと思う人がいる。
その人とは、「せっかくイスタンブールに暮らすなら、ボスポラス海峡の見える家に住みたい」と、家族の希望に沿って引っ越した、アパートの階下に住む一人暮らしの女性のことだ。

イスタンブール

引っ越した翌日、可愛らしい包装紙に包まれた大きなチョコレートケーキが、その女性のメードにより我が家に届けられた。
「マダムは年老いて足が不自由なため、お目にかかることができませんが、よろしくと申してました」と、律儀そうな顔立ちのメードはそう言って帰って行った。ケーキの上には「ギュレギュレ、オトルヌス!(どうぞこのアパートで楽しくお暮らしになってください)」という飾り文字が描いてあった。
翌日私は日本から持参した小さな博多人形を持って、階下の女性を訪ねた。
11時ごろだったと思う。チャイムを鳴らすと、重厚な茶色の扉が開き、昨日のメイドが立っていた。
「マダムをお呼びしますのでどうぞ中に」。
メードに言われるまま私はその家の応接間に通された。部屋は薄暗くかすかに呼吸をしているようで、そよ風がやさしく窓辺の青色のレースのカーテンをなびかせていた。メイドに付き添われ白髪の女性が杖をつきながら現れた。小一時間は話しただろうか。亡き夫との調度品に囲まれ女性がひっそりと思い出の中に生きていることを感じた。

わたしたちのアパートの広さは、240平方メートルあった。リビングは70平方メートルあり念願の暖炉もあった。
ボスポラス海峡が眼下に広がり、アジア大陸とヨーロッパ大陸を結ぶ二つの橋も左右に見えるほど、絶景の眺望だった。とりわけ朝もやに霞む対岸の山の頂が、まるで墨絵に描いた雲海に浮かぶ浮島のように見え隠れし、次第に陽光と共に青々とした海峡が現れる自然の摂理のなすがままの情景は、すべてを忘れ陶酔するほど見事なものだった。
イスタンブールで日本政府後援の日本文化フェスティバルがあった際には、夫の会社の独身男性たちを我が家に招待し、ビール片手に「玉屋ー」と恥ずかしげもなく大声で叫んだものだ。「これがかの有名な日本の花火ですよ」と、バルコニーから叫びたいほど、夜空を埋め尽くす日本の花火は誇らしく美しく輝いていた。当然ながら翌日の新聞は日本の花火の話題でもちきりだった。

イスタンブール

初夏になると週末は、海峡を行き交う客船を眺めながら、バルコニーで朝食をとるのが我が家の習慣に
なった。見渡せば隣人達も同じように海を眺めながら食事をしている。しかし、そうやってのんびり過ごしていても、いつもどこかで誰か好奇な目が私たちを見ている、そんな気配を感じた。何処も隣人に対する好奇心はつよいということなのだろう。

昼間アパートはひっそりとし、時々階下の女性のメイドから「マダムからです」と、作りたてのトルコ料理が我が家に届けられた。息子の誕生日の朝のこと、「子供の誕生パーティーのため少々騒がしくなると思いますが・・」と告げに行くと、「子供は元気が何より、楽しいパーティーをしてあげてください」と、逆に温かい言葉が返ってきた。

日本に帰国する際、何やかやと忙しく挨拶を交わすことができなかった私は、階下の女性のことが気になって、私より一ヶ月遅れて帰国する夫に、女性への今までのお礼の手紙とプレゼントを託した。すると
帰国直前の夫の仮住まいのホテルにメイドがわざわざやってきて、「奥様に」とマダムから預かったという包みを手渡した。
一週間後、日本で私はその包みを受け取った。思いがけない包みの中には、藍色のクリスタルガラスの花瓶と手紙が入っていた。
「あなたが日本に帰られたのを聞いて驚き、寂しい気持ちで毎日を送っています。どうぞ皆様がお元気で、お幸せでありますようにお祈りしています」。

彼女からの藍色の花瓶に花を生けるたびに、花の微かな香りとともに、異国で出会った隣人の温かい気配りを思い出す。

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